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〜頭の中の解けない糸〜
雨は、夕方にはやんでいた。
窓を開けると、濡れた道路の匂いが、まだ少し残っていた。遠くを走る車のタイヤが、ときどき水を跳ねる音がする。
私はカーテンを閉める前に、部屋の中央へ「 Garden Lily」の香りを二度、静かに吹きかけた。
細かな霧が、灯りの下で一瞬だけ白く見えた。それから、カーテンの方へ流れ、ソファの背を越え、部屋の隅へゆっくりと広がっていった。
香りの中で息をすると、さっきまで頭の中を占領していた細かな考えが、少しだけ遠くなる。
テーブルの上には、伏せたままのスマートフォンがあった。
返事を待っているわけではない。
そう思ったとき、私は少し笑った。返事を待っていないふりをするのは、昔からあまり上手ではなかった。
ふいに、雨の匂いの奥から、古い夜が戻ってきた。
高校二年の六月。
悠介をいつから好きだったのかは、もう覚えていない。
気づけば、教室に入ると最初に彼の姿を探していた。廊下で声が聞こえれば、振り返らないふりをして耳を澄ませた。
彼が誰かと笑っていると、それだけで少しうれしかった。
けれど、その頃の私にとって、悠介を好きでいることは、まだ自分の中だけで完結するものだった。
見ているだけなら、傷つくことはない。話せた日はうれしくて、話せなかった日も、明日があると思えた。
あの雨の日までは。
悠介に初めてメールを送った夜だった。
* * *
その日は、放課後から雨が降っていた。
朝の天気予報では曇りだったから、私は傘を持っていなかった。
昇降口の前で雨脚が弱まるのを待っていると、後ろから声をかけられた。
「真帆、傘ないの?」
振り返ると、悠介が紺色の傘を肩に掛けて立っていた。
制服のシャツの袖を、肘の少し下まで無造作にまくっていた。雨の湿気のせいか、前髪がいつもより少しだけ曲がっている。
「持ってくるの忘れた」
私が言うと、悠介は外を見た。
「駅までなら、入ってく?」
ほんの一秒くらいの出来事だったと思う。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、それまで胸の中だけにあった気持ちが、急に現実のものになった。
悠介と二人で帰る。一つの傘に入る。
想像したことはあった。でも、本当に起きるとは思っていなかった。
一緒に帰りたい。
でも、うれしそうな顔をしたくない。
悠介にとっては、ただ傘に入れてあげるだけかもしれない。私が勝手に特別な意味を感じたら、きっと恥ずかしい。
「迷惑じゃない?」
やっと出てきた言葉は、それだった。
「別に。濡れるよりいいじゃん」
悠介はそう言って、先に傘を開いた。
私は彼の左側に入った。傘は二人で歩くには少し小さかった。
歩くたびに肩が触れそうになって、そのたびに私は、道路側へ少しずつ寄った。
「そっち、濡れてない?」
悠介が言った。
「大丈夫」
本当は、左肩がずいぶん濡れていた。でも悠介の方へ近づくことの方が、雨に濡れるよりずっと怖かった。
駅までの道は、いつもなら十分もかからない。その日は、信号に二度引っかかった。
一つ目の信号では、悠介が昨日見たテレビの話をした。二つ目の信号では、来週の英語の小テストの話をした。
どちらも、特別な話ではなかった。
それでも私は、彼が話すたびに笑った。何か気の利いたことを返したくて、頭の中で言葉を選び続けた。
笑いすぎていないかな。話しすぎていないかな。つまらないと思われていないかな。
悠介の横を歩きながら、私は彼と話すことより、彼から見た自分のことばかり考えていた。
駅に着く頃には、雨が少し弱くなっていた。
「じゃあ、気をつけて」
悠介が傘を閉じながら言った。
「うん。ありがとう」
「家着いたら、メールして」
彼は何でもないことのように言った。
私は顔を上げた。
「なんで?」
本当は、うれしかった。でも、うれしいと気づかれるのが嫌で、少しだけ冷たい言い方になった。
悠介は一瞬、困ったような顔をした。
「ちゃんと帰れたか、一応」
「ああ、そういうこと」
そういうこと。それ以上の意味はない。
自分に言い聞かせるように、私は言った。
悠介は改札の前で手を上げた。私も小さく手を振った。
電車に乗ってからも、胸の奥がずっと落ち着かなかった。
* * *
家に着いたのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。
制服を着替えるより先に、私は携帯電話を開いた。
何度も文章を書き直した。
《着いたよ。今日はありがとう》
これでは、そっけなさすぎる気がした。
《着いたよ。今日はありがとう。楽しかった》
今度は、気持ちが出すぎているように思えた。
「楽しかった」を消して、また入れた。句点をつけるかどうかでも迷った。
絵文字を入れれば軽く見えるかもしれない。でも、普段あまり使わない絵文字を入れたら、考えて送ったことが分かってしまう。
十分以上かけて、結局送ったのは、
《着いたよ。今日はありがとう。楽しかった》
という、最初とほとんど変わらない文章だった。
送信した瞬間、胸が熱くなった。
もう少し短くすればよかった。「楽しかった」はいらなかったかもしれない。
悠介は、駅に着いたことだけ知らせてほしかったのだ。余計なことまで書いて、好意を押しつけたように思われたらどうしよう。
私は送った文章を、何度も読み返した。
九時十三分。
九時二十一分。
九時三十七分。
返事は来なかった。
お風呂に入っているのかもしれない。夕飯を食べているのかもしれない。家族と話しているのかもしれない。
最初は、そう思っていた。
けれど、時間がたつほど、頭の中に別の考えが増えていった。
迷惑だったのかもしれない。一緒に帰ったことを、後悔しているのかもしれない。私が話しすぎたのかもしれない。
信号待ちのとき、悠介が一度黙ったのは、退屈していたからかもしれない。
「家着いたらメールして」と言ったのも、ただの社交辞令だったのかもしれない。
私は、その日の会話を最初から何度も再生した。
悠介の言葉。表情。笑い方。傘を持つ手。駅で別れるときの声。
楽しかった記憶だったはずなのに、考え直すたびに、少しずつ違う形になっていった。
あの笑顔も、本当は困っていたのかもしれない。あの優しさも、私にだけ向けられたものではなかった。
悠介の沈黙の中へ、私は自分でいくつもの意味を詰め込んだ。
十時を過ぎても、返事は来なかった。
携帯電話を閉じても、数分後にはまた開いた。新着メールがないことを確認して、傷ついて、それでもまた確認した。
《さっきの、変な意味じゃないから》
そんな文章を打って、送らずに消した。
《もう寝た?》
それも消した。
何も送らない方がいい。これ以上送ったら、本当に重いと思われる。
でも、何もしないで待っているのも苦しかった。
連絡したい。でも、したくなかった。
返事がほしい。けれど、待っていたことを知られたくなかった。
返事が来ないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。
ただの友達からのメールなら、明日になればいいと思えたはずだった。
でも、悠介からどう思われたのか分からないことは、自分の大切な部分を預けたまま、返してもらえないことのように感じた。
あの時間がうれしかった。悠介と一緒に帰れたことが、私にとっては特別だった。
だからこそ、彼にとっては何でもない時間だったかもしれないと思うのが怖かった。
母が部屋のドアを少し開けた。
「お風呂、空いたよ」
「分かった」
「明日も学校でしょ。早く入りなさいよ」
「分かってるって」
思ったより強い声が出た。
母は何も言わずにドアを閉めた。その音で、自分がずっと息を浅くしていたことに気づいた。
携帯電話の画面は暗いままだった。
私は立ち上がって、窓を開けた。
雨上がりの湿った空気が、部屋へ入ってきた。
道路の匂い。濡れた土の匂い。どこかの家の柔軟剤の匂い。
遠くで電車が走る音がした。
私は窓枠に手を置き、息を吸った。それから、できるだけ長く吐いた。
はぁ、と音がした。
ほんの少しだけ、胸の中に空間ができた。
返事が来ていない。
今、分かっていることは、それだけだった。
嫌われたかどうかは、まだ分からない。迷惑だったかどうかも、分からない。
今日の時間を悠介がどう思ったのかも、私はまだ知らない。
何も分からないのに、私はもう、恋が終わったところまで一人で進んでいた。
そのことに気づくと、少しおかしくなった。でも、笑えるほど気持ちは軽くなかった。
私は携帯電話を机の上に伏せた。
明日の朝まで見ない。
そう決めても、すぐにまた見たくなることは分かっていた。それでも、ベッドへ入った。
布団の中でも、悠介のことを考えた。
同じ傘の下にいたときの距離。「家着いたら、メールして」と言った声。右肩が雨に濡れていたこと。
本当は、もっと悠介の近くを歩きたかったこと。
私は枕に顔を半分埋めた。
寂しかった。
まだ何も始まっていないのに、失うのが怖かった。
好きだった。
それは、あの雨の日より前から分かっていた。
ただ、遠くから見ているだけだった気持ちが、一つの傘の下で急に現実になった。
悠介にどう思われるかで、こんなにも胸が揺れる。返事が来ないだけで、今日のすべてを否定されたように感じてしまう。
私はあの夜、誰かを好きになることは、うれしいだけではないのだと初めて知った。
好きだから、期待する。好きだから、怖くなる。好きだから、何でもない沈黙にまで意味を探してしまう。
そのことを認めるのが、あの頃の私にはまだ難しかった。
眠ったのが何時だったのかは、覚えていない。
* * *
朝、目を覚ましたとき、枕元の携帯電話が光っていた。
悠介からだった。
慌てて開くと、一通のメールが届いていた。
午前六時四十二分。
《ごめん。帰ってすぐ寝てた。俺も楽しかった。傘は今度でいいよ》
私は、三度読んだ。
四度目を読む頃には、昨夜の苦しさが急に恥ずかしくなった。
あんなに何時間も悩んだのに。嫌われたと思ったのに。恋が終わったところまで考えたのに。
悠介は、ただ寝ていただけだった。
うれしくて、少し腹が立った。腹が立って、またうれしくなった。
返事を考えていると、すぐにもう一通届いた。
《今日も雨らしい。傘忘れんなよ》
私は笑った。
それから、できるだけ何でもない文章に見えるように、
《分かってる》
とだけ返した。
本当は、朝から世界が明るく見えるほど、うれしかった。
* * *
あの恋がどうなったのかを、今の私は知っている。
あのとき送ったメールの一文字一文字も、悠介の返信を待った時間も、もう携帯電話の中には残っていない。
それでも、あの夜の空気だけは、ときどき妙に鮮明に戻ってくる。
雨上がりの匂い。暗い画面。返事が来ない数分間を、永遠のように感じていたこと。
あの雨の日は、悠介を好きになった日ではなかった。
胸の中だけにあった初恋が、初めて現実の世界へ触れた日だった。
だから、うれしかった。だから、怖かった。
返事を待ちながら、私は初めて、好きな人の沈黙と自分の価値を混ぜてしまった。
けれど同時に、誰かをそれほど大切に思える自分のことも、初めて知ろうとしていた。
私は長い間、あの頃の自分を、少し恥ずかしいと思っていた。
考えすぎていた。重かった。もっと余裕があればよかった。もう少し上手に恋ができればよかった。
けれど今は、そうは思わない。
あの頃の私は、まだ好きな人の沈黙と、自分の価値をうまく分けられなかった。それほどまっすぐに、悠介の一言を受け取っていた。
目が合えばうれしくて。同じ傘に入れただけで、その日のすべてが特別になって。返事が来ないだけで、世界から色が消えた。
傷つきやすかった。でも、同じくらい、喜びやすかった。
今よりずっと、心の表面がやわらかかった。
部屋の中には、「ほどく」の香りが静かに漂っていた。
私はテーブルの上のスマートフォンを見た。画面はまだ暗い。
返事は、まだ来ていない。
けれど、今分かっているのは、それだけだった。
私はスマートフォンから手を離した。
カーテンを閉め、部屋の灯りを少し落とす。香りの中で息を吸い、ゆっくりと吐いた。
はぁ、と小さな音がした。
答えが出たわけではなかった。気にならなくなったわけでもない。
それでも、肩の力が少し抜け、胸の奥にほんのわずかな空間ができた。
あの夜の私は、悠介の返事を待ちながら、自分の価値まで確かめようとしていた。
でも同時に、誰かをあんなにまっさらな気持ちで好きになれる自分を、初めて知ろうとしていたのかもしれない。
ほどけたのは、昔の恋ではなかった。
あの頃の私に向けて、今もどこかで結んでいた、恥ずかしさの糸だった。
返事が来るかどうかは、まだ分からない。
今夜は、それでよかった。
いつの間にか蓋をしていた、小さな本音。
次は、そんな記憶の断片に触れる物語をお届けします。