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〜ごまかす前のチクッとした本音〜
古い映画を観ていた。
休日の午後だった。
窓から差し込んだ光が、カーテンの隙間から床へ細長く落ちている。
物語はもう終盤に差しかかっていたけれど、私はほとんど画面を見ていなかった。
主人公の女の子が、好きな人と別の女の子が並んで歩いているところを、少し離れた場所から見つめていた。
声をかけることもなく、二人に気づかれないうちに笑顔を作って、その場を通り過ぎていく。
その横顔を見た瞬間、胸の奥がかすかに痛んだ。
ずっと忘れていたはずなのに、身体だけは覚えている痛みだった。
私は映画を一度止めた。
テーブルの上に置いていた小瓶を手に取る。
ラベルには、「Dewy Green」と書かれていた。
窓辺から少し離れた場所へ、香りをひと吹きする。
細かな霧が午後の光の中に浮かび、ゆっくりと部屋へ広がっていった。
もう一度、空間に香りを放つ。
カーテンの近くまで流れた香りが、本棚の前を通り、ソファに座る私のところまで静かに戻ってきた。
その中で息をすると、映画の中の少女の横顔に重なるように、あの頃の自分が戻ってきた。
高校二年の秋。
あの雨の日から、悠介とは以前より少しだけメールをするようになっていた。
毎日ではなかった。けれど、携帯電話の画面に悠介の名前が表示されるたび、私はまだ少しだけ息を止めた。
文化祭の前日だった。
* * *
教室には、絵の具と段ボールと、少し甘い缶コーヒーの匂いが混じっていた。
窓の外は、もう暗くなり始めている。
教室の後ろでは、男子が段ボールを切っていた。窓際では、何人かの女子が紙の花を作っている。
私たちのクラスは、文化祭で昔ながらの喫茶店をやることになっていた。
黒板には、誰かが大きな字で「昭和レトロ喫茶」と書いていたけれど、その横に描かれた猫は、どう見ても江戸時代の化け猫だった。
「それ、怖くない?」
私が言うと、黒板の前にいた悠介が笑った。
「いいじゃん。インパクトあるし」
「喫茶店に入る前に帰る人いると思う」
「じゃあ、真帆がもっとかわいくしてよ」
悠介はチョークを私に差し出した。
「無理。絵、苦手だし」
本当は、絵を描くのは嫌いではなかった。小さい頃は、よくノートの端に星や花を描いていた。
でも、中学生のときに友達から「何それ」と笑われてから、人前ではあまり描かなくなっていた。
私はチョークを受け取らず、代わりに黒板消しを持った。
「消す方ならできる」
「もったいないな。傑作なのに」
悠介が猫の隣に、小さく自分の名前を書こうとしたときだった。
「なにこれ、めっちゃ怖い!」
明るい声が、教室の入口から聞こえた。
振り返ると、隣のクラスの奈緒が立っていた。
肩までの髪を一つにまとめ、ジャージの袖を肘までまくっている。両手にはコンビニの袋をぶら下げていた。
「差し入れ持ってきたよ」
「神じゃん」
悠介はすぐに奈緒のところへ行った。
奈緒は袋からペットボトルやお菓子を出し、机の上へ並べていく。
「先生に見つかったら怒られるから、ちゃんと隠してよ」
「奈緒が買ってきたって言う」
「最低」
二人は笑った。
奈緒は中学から悠介と同じバスケットボール部だった。
悠介の好きな食べ物も、苦手な先生も、試合の前に必ず右足から靴を履く癖も知っていた。
私が少しずつ集めてきた悠介のことを、奈緒はずっと前から知っている。
それが、少し悔しかった。けれど、そんなふうに思う自分の方が嫌だった。
奈緒は私にも、缶のミルクティーを渡した。
「これ、好きだったよね?」
「ありがとう」
奈緒は何も悪くなかった。
むしろ、いつも明るくて、気が利いて、誰にでも同じように優しかった。
嫌いになれたら楽なのに、と思ったことがある。でも、嫌いになる理由がなかった。
「ねえ、明日の軽音のライブ、一緒に行かない?」
奈緒が悠介に聞いた。
「何時?」
「二時。体育館」
「行けたら行く」
「それ絶対来ないやつじゃん」
奈緒は笑いながら、悠介の腕を軽く叩いた。
その瞬間、胸の真ん中に、細い針が触れたような痛みが走った。
ほんの一瞬だった。チクッとした。
でも、その痛みを感じた直後に、別の声が頭の中に浮かんだ。
別に、普通じゃん。
部活が一緒なんだから、仲が良くて当然だ。付き合っているわけでもないのに、嫉妬する方がおかしい。
私は缶のふたを開けた。
「二人、ほんと仲いいよね」
できるだけ何でもないことのように言った。
奈緒が笑った。
「腐れ縁。こいつ、昔から全然変わんないもん」
「奈緒もな」
悠介も笑った。
私は一緒に笑った。何がおかしいのかは分からなかった。
その場で笑わないと、私だけ何かを気にしていることが知られてしまう気がした。
缶のミルクティーを飲むと、思ったより甘かった。
「そういえばさ」
悠介が私を見た。
目が合っただけで、心が少し跳ねた。
「真帆、明日どっか見たいとこある?」
「え?」
「文化祭。シフト終わったあと」
その言葉に、さっきの痛みが少し遠のいた。
本当は、見たい場所があった。
三年生が理科室でやる、簡単なプラネタリウム。黒い布で窓を覆い、天井に星を映すらしい。
ポスターを見たときから、悠介と一緒に行けたらいいと思っていた。
暗い部屋で、隣に座って。たとえ話せなくても、同じ星を見てみたかった。
「別に、どこでもいい」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「どこでも?」
「うん。みんなで適当に回ればいいんじゃない?」
本当は、二人で行きたかった。
でも、それを言えば、好きだと伝えるのと同じくらい恥ずかしい気がした。
悠介は少し考えてから、「そっか」と言った。
それだけだった。
そっか。
悠介は私の気持ちに気づかなかった。当たり前だった。私は何も言っていない。
それなのに心の中では、気づいてくれなかった悠介を少しだけ責めていた。
* * *
文化祭当日、教室は朝から混雑していた。
借りてきた丸いテーブル。赤いチェック柄の布。インスタントコーヒーの匂い。
慣れないエプロンをつけて、私は注文を取り続けた。
悠介はキッチンの担当だった。ときどきカウンター越しに目が合った。
悠介がふざけて変な顔をするたび、笑わないようにするのが大変だった。
午前中は、昨日の心の痛みを忘れていた。同じ場所で、同じことをしているだけでうれしかった。
悠介が私のために作ったわけでもないサンドイッチを、私が運ぶ。
名前を呼ばれる。
「真帆、これ三番のテーブル」
「分かった」
それだけで、その日が特別になった。
午後一時半、私たちのシフトが終わった。
エプロンを外していると、悠介が教室の後ろから声をかけてきた。
「このあと、どうする?」
私の心臓が跳ねた。
プラネタリウム。
今なら言えるかもしれない。
「あの——」
言いかけたとき、奈緒が教室の入口から顔を出した。
「ねえ、ライブ始まるよ!」
「あ、もうそんな時間?」
悠介が時計を見た。
「行くって言ったじゃん」
「行けたらって言った」
「はいはい。早く」
奈緒は悠介の袖をつかんだ。
悠介は少し困ったように笑ってから、私を見た。
「真帆も一緒に行く?」
一瞬、答えられなかった。
一緒に行けばいい。奈緒もいるけれど、悠介と過ごせる。それで十分なはずだった。
でも、私が見たかったのは軽音のライブではなかった。私が欲しかったのは、三人で過ごす時間でもなかった。
悠介と二人で、星を見たかった。
その気持ちはあまりにも小さくて、わがままで、口に出すのが恥ずかしかった。
「いい。私、教室戻るから」
「戻るの?」
「人足りないって言ってたし」
それは、半分だけ本当だった。
「そっか。じゃあ、あとで」
悠介は奈緒と一緒に廊下を歩いていった。
二人の背中が、曲がり角の向こうに消えるまで見ていた。
そのとき心にあったものを、私は嫉妬と呼んだ。
嫉妬する自分が嫌だった。
奈緒は悪くない。悠介だって悪くない。何も言わなかった私が悪い。
そう考えるうちに、最初に心へ触れた小さな痛みが、どんなものだったのか分からなくなっていった。
私は教室へ戻らなかった。気づけば、理科室へ向かっていた。
廊下は、人でいっぱいだった。
友達同士で笑いながら歩く人。好きな人を探しているような人。手をつないでいる制服姿の二人。
私は人の流れを避けるように、校舎の端の階段を上った。
理科室の前には、「星空の時間」と書かれた手作りの看板が置いてあった。
入口にいた三年生が言った。
「一人?」
その聞き方が嫌だった。
一人で来る人は、珍しいのだろうか。
「はい」
私は小さく答えた。
黒いカーテンをくぐる。中は思っていたより暗かった。
教室の椅子が、半円になるよう並べられている。私は一番後ろの端に座った。
しばらくすると扉が閉じ、天井に星が映った。
青白い光。小さな星。少し歪んだ月。
手作りだから、本物の夜空には見えなかった。
それでも、暗い理科室の中で星を見上げていると、不意に涙が出そうになった。
悠介と見たかった。
その言葉が、やっと心の中に浮かんだ。
奈緒に嫉妬した。それも本当だった。
でも、そのもっと手前で、心が最初に感じたのは、悲しさだった。
悠介と一緒に行きたいと思っていた場所へ、悠介は来なかった。
私は何も言っていないのに、分かってほしいと思っていた。
私を選んでほしかった。誰かより大切にしてほしかった。
悠介と一緒に星を見たいと言えばよかった。
ただ、それだけだった。
なのに私は、その気持ちの上に、いくつもの言葉を重ねていた。
嫉妬するなんて嫌だ。重いと思われたくない。奈緒より余裕のある女でいたい。
悠介に自由でいてほしい。いい人でいたい。
そうやって自分を繕ううちに、最初の気持ちが見えなくなっていた。
天井の星が、ゆっくりと回っていた。
案内役の三年生が、星座の説明をしている。私はほとんど聞いていなかった。
ただ、自分の心の奥にある小さな言葉を、何度も確かめていた。
私は、悠介と一緒に見たかった。
私は、悲しかった。
好きだったから。
悠介との時間を、大切にしていたから。
そう思ったら、涙は出なかった。
代わりに、胸の痛みの周りに、少しだけ温かいものが生まれた。
痛いのに、安心するような、不思議な感覚だった。
* * *
プラネタリウムが終わり、外へ出ると、廊下の明るさに目がくらんだ。
私は教室へ戻ろうとした。
階段を下りたところで、悠介が立っていた。一人だった。
「どこ行ってたの?」
少し息を切らしていた。
「プラネタリウム」
「一人で?」
また、その聞き方だった。
「うん」
「探したんだけど」
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
「なんで?」
悠介は少し黙った。
「あとでって言ったから」
それだけだった。でも、私はうれしかった。
ライブはどうだったの、と聞きかけて、やめた。奈緒と一緒だったことを気にしていると知られたくなかった。
悠介は私の顔を見た。
「プラネタリウム、面白かった?」
「まあまあ」
本当は、悠介と一緒に見たかった。
言おうと思った。喉まで出かかった。でも、やっぱり言えなかった。
「あのさ」
悠介が先に口を開いた。
「何?」
「真帆、何見たいとか、もっと言えばいいのに」
胸の奥が、チクッとした。
怒っているようには聞こえなかった。ただ、不思議そうだった。
「別に。そんなに見たいものなかったし」
また、嘘をついた。
悠介は「そっか」と言った。前の日と同じ言葉だった。
そっか。
私が本音を隠すたび、悠介はそう言った。そして私は、そのたびに、分かってもらえなかったと思って傷ついていた。
その日の帰り、私たちは駅まで一緒に歩いた。
文化祭の感想を話した。
化け猫の看板が意外と人気だったこと。サンドイッチを三回落とした男子のこと。
奈緒がライブで大声を出しすぎて、途中で先生に注意されたこと。
私は笑った。今度は、少しだけ本当におかしかった。
駅の近くで、悠介が自動販売機の前に止まった。
「何飲む?」
「なんでもいい」
そう答えかけて、私は口を閉じた。
悠介がこちらを見る。
自動販売機には、見慣れた缶が並んでいた。
コーヒー。炭酸飲料。レモンティー。昨日、奈緒からもらった甘いミルクティー。
私は少し迷ってから言った。
「レモンティー」
悠介は何も言わずにボタンを押した。落ちてきた缶を、私に渡す。
「ありがとう」
缶は温かかった。
それだけのことだった。
見たい場所は言えなかった。悲しかったことも言えなかった。
悠介と星を見たかったことも、最後まで言えなかった。
それでも、飲みたいものを一つだけ言えた。
あの頃の私には、それが小さな変化だった。
* * *
映画は、停止したままだった。
部屋には「思い出す」の香りが静かに満ちていた。
私はソファに座ったまま、文化祭の日のことを考えていた。
暗い理科室。歪んだ星。廊下で私を探していた悠介。温かいレモンティー。
もうずっと思い出していなかったのに、缶の手触りまで覚えているような気がした。
あの頃の私は、嫉妬した自分を嫌っていた。
誰かと比べてしまうことも。特別に扱われたいと思うことも。
好きな人に、自分を一番に選んでほしいと思うことも。
全部、みっともない感情だと思っていた。
でも今なら、もう少し手前にあったものを見ることができる。
奈緒に嫉妬した。それは本当だった。
けれど、その気持ちが生まれるより先に、心はもっと単純なことを感じていた。
悠介と一緒に見たかった。私も誘ってほしかった。私との時間を、大切にしてほしかった。
好きだったから、悲しかった。
大切だったから、痛かった。
それだけだった。
そのあとで私は、自分の感情を裁き始めた。
嫉妬する私は嫌な女だ。こんなことを気にする私は重い。余裕がなくて恥ずかしい。
そうやって自分をごまかすうちに、最初に感じた小さな本音を見失っていた。
でも、その本音は消えていなかった。
暗い理科室の天井に浮かんだ星のように、ずっと胸の奥に残っていた。
私は部屋の中を見回した。
本棚の一番下に、古いスケッチブックが立てかけてあった。何年も開いていないものだった。
手に取り、表紙についた埃を払う。
ページを開くと、昔描いた星や花が残っていた。
上手ではなかった。線は歪み、形も整っていない。
それでも、何かを好きで描いていたことだけは伝わってきた。
誰かに見せるためでもなく。褒められるためでもなく。
ただ、自分が好きだったから描いていた。
私はページの隅に、小さな星を一つ描いた。
久しぶりに持った鉛筆は、思ったより軽かった。上手に描こうとは思わなかった。
映画の続きを再生する前に、もう一度、香りの中で深く息をした。
胸の奥に、あのときと同じ小さな痛みがあった。
けれど今は、それを追い払おうとは思わなかった。
痛みの中には、あの頃の私の素直さが残っていた。
悠介と星を見たかった私。好きだから悲しかった私。飲みたいものを、やっと一つ言えた私。
私は、そんな自分を少しだけ愛おしいと思った。
思い出したのは、昔の悠介だけではなかった。
誰かの反応を見る前に、自分が何を好きだったのか。平気なふりをする前に、心が何を感じていたのか。
繕うことも、ごまかすことも、まだ今ほど上手ではなかった頃の、瑞々しい私だった。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾いていた。
映画の中の少女は、まだ笑ったまま立っている。
私は再生ボタンを押した。
今度は、彼女の笑顔の奥にあるものを、見落とさずにいられるような気がした。
次回予告
最後は、新しい一歩を踏み出すための物語です。
見つめた過去を抱えて、これからの道を選び取る。