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〜自分の選択を信じて歩き出す〜
メッセージを書いては消していた。
《今度、少し話せない?》
それでは、何を話したいのか分からない。
《この前のこと、ちゃんと話したい》
これでは、相手を責めているように見えるかもしれない。
《本当は、少し寂しかった》
そこまで打って、指が止まった。
寂しかった。
ただ、それだけのことを伝えるのが、どうしてこんなに難しいのだろう。
言葉にした瞬間、自分の弱いところを差し出すような気がする。
面倒だと思われるかもしれない。考えすぎだと言われるかもしれない。
そんなつもりはなかったと、軽く流されるかもしれない。
それなら、何も言わない方がいい。
時間がたてば、この気持ちも薄くなる。相手に合わせて笑っていれば、関係を変えずに済む。
何度も繰り返してきた考えだった。
私は入力した文章をすべて消し、スマートフォンをテーブルへ置いた。
画面が暗くなる。
窓の外では、春の風が街路樹を揺らしていた。
夜になりきる前の、青く薄い空。遠くで電車が通り過ぎる音が聞こえた。
私は、テーブルの端に置かれていた小瓶を手に取った。ラベルには、「 Sunlit Citrus」と書かれている。
部屋の中央へ、静かに香りを放った。
細かな霧が灯りを横切り、開けていた窓の方へゆっくり流れていく。
もう一度、空間へ広げる。
香りは、背中を押さなかった。
早く決めなさいとも、勇気を出しなさいとも言わなかった。
ただ、さっきまでより少しだけ、部屋が広く感じられた。
道は一つではない。
伝えることもできる。伝えないこともできる。今夜ではなく、明日にすることもできる。
少し距離を置くことも、もう一度会って話すこともできる。
どれが正しいかではなく、私はどれを選びたいのか。
香りの中で息をしたとき、遠くを走る電車の音が、別の春の夕方を連れてきた。
悠介が、この街を離れると知った日のことだった。
* * *
高校二年の終わりが近づいていた。
三月に入っても朝はまだ寒く、教室の窓には薄く白い曇りが残っていた。
卒業するのは三年生だけだった。
私たちは春休みを終えれば、そのまま同じ校舎で三年生になる。
少なくとも、私はそう思っていた。
朝のホームルームが始まる前、教室の後ろに何人かの男子が集まっていた。その中心にいたのは悠介だった。
「引っ越すって、どこに?」
誰かが聞いた。
悠介は、机の上に腰を掛けたまま答えた。
「静岡。親父の仕事」
「遠くない?」
「まあ、新幹線ならそんなでもないけど」
「転校すんの?」
「する。春休み中に引っ越すから、ここに来るのは今学期まで」
聞こえてきた言葉の意味が、すぐには分からなかった。
悠介が引っ越す。転校する。今学期まで。
頭の中には入ってきたはずなのに、どこにも引っかからず、床へ落ちていくようだった。
私は席に座ったまま、筆箱からシャープペンシルを出した。
ノートを開く。今日の日付を書く。何も聞いていないふりをした。
悠介は、どうして私に言わなかったのだろう。
そう思ったあとで、言う理由がないことに気づいた。
私たちは付き合っていない。
放課後に話すことが増えた。ときどきメールをする。駅まで一緒に帰ることもある。
けれど、それだけだった。
私は悠介にとって、転校を一番に知らせるような相手ではなかった。
その事実を考えると、胸の奥が冷たくなった。
「真帆、聞いてた?」
隣の席の子に声をかけられた。
「何を?」
「悠介、転校するんだって」
「聞こえた」
できるだけ普通に答えた。
「びっくりだよね」
「うん。でも、仕方ないよね。親の仕事なら」
自分でも驚くほど、きれいな言葉が出た。
仕方ない。
まだ高校生なのだから、家族と一緒に行くしかない。静岡なら、二度と会えないほど遠くもない。
メールだってできる。今までと何も変わらないかもしれない。
そう考えれば考えるほど、胸の中で別の声が大きくなった。
嫌だ。
行ってほしくない。
まだ何も言っていない。
私は悠介に、何一つ伝えていない。
文化祭の日、悠介と一緒に星を見たかったことも。奈緒と歩いていく背中を見て、悲しかったことも。
駅まで一緒に帰れる日は、前の日から何を話そうか考えていたことも。
あの雨の日より前から、たぶんずっと好きだったことも。
私はいつも、悠介が何かを察してくれるのを待っていた。
けれど悠介は、私が言わなかったことを知らない。知らないまま、この街からいなくなる。
一時間目が始まっても、先生の声はほとんど耳に入らなかった。
黒板に書かれた数式をノートへ写しながら、私はいくつもの未来を考えた。
今までどおり、何も言わずに見送る。最後にみんなで写真を撮り、笑って手を振る。
転校したあとも、ときどきメールをする。そのうち返信の間隔が空く。
新しい学校で、新しい友達ができる。好きな女の子ができる。
私はそれを、ずっとあとになって誰かから聞く。
そこまで考えたとき、シャープペンシルの芯が折れた。ノートの上に、小さな黒い点が残った。
もう一つの未来も考えた。
好きだと伝える。
悠介は困る。転校する直前にそんなことを言われても、どうしようもないと思うかもしれない。
断られるかもしれない。友達に話されるかもしれない。残された数日まで、気まずくなるかもしれない。
それなら、今のままの方がいい。
楽しかった記憶だけを残しておいた方がいい。
けれど、その未来を想像すると、胸の奥に何かが残った。
言わなかった言葉が、ずっとそこに刺さり続けるような気がした。
* * *
昼休み、私は一人で階段の踊り場にいた。
教室にいると、悠介の声が聞こえる。いつもと変わらず笑っている声を聞くのが、少しつらかった。
窓の外には、まだ葉のない桜の木が並んでいた。
花が咲く頃には、悠介はもうここにいない。
「真帆」
振り返ると、奈緒が立っていた。手には紙パックのジュースを持っていた。
「こんなところで何してんの?」
「別に」
奈緒は私の隣へ来ると、窓枠に背中を預けた。
しばらく何も言わなかった。
彼女のそういうところを、私は少し意外に思った。
奈緒は、いつも明るく、思ったことをすぐ口にする人だと思っていた。けれどその日は、私が話すまで待っていた。
「悠介、引っ越すんだね」
私が言うと、奈緒は小さく頷いた。
「うん。部活の方では、少し前に聞いた」
「そうなんだ」
また胸が痛んだ。
奈緒は先に知っていた。私は知らなかった。
その痛みを感じた直後、私はいつものように打ち消そうとした。
部活が同じなのだから当然だ。奈緒が悪いわけではない。私が特別ではなかっただけだ。
けれど、その言葉で覆ってしまう前に、別の気持ちが浮かんだ。
教えてほしかった。
悠介の口から、先に聞きたかった。
「真帆は、どうするの?」
奈緒が聞いた。
「どうするって?」
「悠介に」
「何もすることないよ」
「そっか」
その言葉に、私は奈緒を見た。
悠介と同じだった。
私が本音を隠すと、みんな「そっか」と言う。
当たり前だった。その先にあるものを、私は誰にも見せていない。
「言った方がいいと思う?」
思わず聞いた。
奈緒は、すぐには答えなかった。紙パックの角を指で押しながら、少し考えていた。
「私は、言った方がいいとか、言わない方がいいとか、分かんない」
「何それ」
「だって、言ってどうなるかは悠介次第じゃん」
胸が重くなった。
やっぱり、やめた方がいいのかもしれない。
そう思ったとき、奈緒が続けた。
「でも、真帆がどうしたいかは、真帆しか分かんないでしょ」
私は何も言えなかった。
言えば、恋が叶うかもしれない。言えば、後悔しないかもしれない。
そんなことばかり考えていた。
でも本当は、叶うかどうかも、後悔するかどうかも、まだ分からない。
私はどうしたいのか。
そのことだけを、自分に聞いたことがなかった。
「奈緒は、悠介のこと好きじゃないの?」
ずっと聞けなかったことを、私は聞いた。
奈緒は目を丸くしたあと、声を出して笑った。
「ないない。あいつ、小学校のとき泥団子食べてたし」
「食べないでしょ、普通」
「悠介は食べた。賭けで」
笑いながら話す奈緒を見て、私も少し笑った。
胸の奥に長い間あったものが、全部消えたわけではなかった。
奈緒と悠介が特別に見えていたことも、本当だった。奈緒に嫉妬していたことも、本当だった。
でも、私が想像していたことのすべてが、事実だったわけではない。
「好きなの?」
奈緒が今度は私に聞いた。
私は廊下の床を見た。
好きだと答えるだけで、心臓が速くなる。
それでも、小さく頷いた。
「うん」
初めて、誰かの前で認めた。
声にすると、身体の中で何かが動いた。
怖かった。けれど同時に、少しだけ足元がはっきりした。
「そっか」
奈緒は、もう一度そう言った。
今度の「そっか」は、前とは違って聞こえた。
私の言葉を、そのまま受け取ってくれたような気がした。
* * *
悠介が学校へ来る最後の日まで、あと四日だった。
私は毎日、今日こそ話そうと思った。
けれど、教室に悠介がいると、いつもどおりに話してしまった。
数学の宿題。テレビの話。新しい学校の制服が変だという話。引っ越しの準備が面倒だという話。
「静岡行ったら、お茶ばっか飲むのかな」
私が言うと、悠介は笑った。
「真帆、静岡を何だと思ってんの」
こんなふうに話せる時間を、気まずくしたくなかった。
好きだと言えば、今までと同じではいられなくなる。
でも、何も言わなければ、今までと同じ時間そのものが終わる。
最後の登校日の前夜。
私はメールの画面を開いた。
《明日、学校終わったあと少し時間ある?》
打ってから、十分近く送れなかった。
理由を書いた方がいいだろうか。話があると書けば、重いかもしれない。
駅まで一緒に帰ろう、くらいにした方がいいかもしれない。
何度も文章を書き直した。
最後に残ったのは、最初に打った一文だった。
《明日、学校終わったあと少し時間ある?》
私は目を閉じ、送信した。
返事は、三分後に届いた。
《あるよ。何?》
何、と聞かれても答えられなかった。
《明日言う》
送ると、すぐに返事が来た。
《怖いんだけど》
その文の最後には、笑っている顔の絵文字がついていた。
私は少しだけ笑った。
《別に怖くない》
本当は、私の方がずっと怖かった。
* * *
次の日の放課後、空はよく晴れていた。
冬の名残を残した冷たい風が、制服のスカートを揺らしていた。
私たちは、駅までの道を歩いた。
六月に、初めて一つの傘へ入った道だった。
あの日には濡れていたアスファルトが、春の光を白く反射していた。
悠介は、いつもと同じように話していた。
引っ越し先の部屋が狭いこと。新しい学校には、今の学校より大きな体育館があること。
荷造りをしていたら、小学生の頃の作文が出てきたこと。
私は返事をしながら、いつ言えばいいのかを考えていた。
今。次の角を曲がったら。信号が赤になったら。駅へ着く前に。
そう思い続けているうちに、駅が見えてきた。
このままでは、また何も言えない。
一つ目の信号が青になった。
悠介が歩き出す。私は動けなかった。
数歩先へ進んだ悠介が、振り返った。
「真帆?」
信号の音が鳴っていた。早く渡らなければ、赤になる。
通り過ぎる車の音。駅へ向かう人たちの足音。冷たい風。
私は横断歩道の手前に立ったまま、悠介を見た。
「話がある」
「うん。だから何?」
悠介が戻ってきた。
信号が赤に変わる。人の流れが途切れ、私たちだけが歩道の端に残った。
心臓の音が、うるさいほど聞こえた。
「私、悠介のこと好きだった」
言葉が出た瞬間、自分でも違和感があった。
好きだった。
過去形にすれば、傷つかずに済むと思った。
悠介は何も言わなかった。その沈黙が怖くなった。
私は手のひらを強く握った。
ここで、いつものように笑えばよかった。冗談だと言うこともできた。
昔の話だから、と付け加えることもできた。
でも、それでは何も変わらない。
私は息を吸った。
「違う」
「え?」
「好きだった、じゃなくて」
悠介の顔を見た。
逃げたくなった。
それでも、今ここで伝えたいと思ったのは私だった。
誰かに言われたからではない。恋を叶える方法として正しいからでもない。
言わないまま終わらせたくなかった。
「今も、好き」
声は、思っていたより小さかった。
でも、ちゃんと悠介まで届いた。
悠介は驚いた顔をしていた。それから一度、目をそらした。
困らせた。
そう思った。胸が縮む。
断られる言葉を聞く前に、逃げたくなった。
「ごめん。急に」
「いや」
「返事とか、別に今じゃなくていいから」
「真帆」
名前を呼ばれて、私は黙った。
悠介は、少しだけ笑った。いつものふざけた笑い方ではなかった。
「俺、真帆が何考えてるか、全然分かんなかった」
「言ってないから」
「うん」
「でも、分かってほしいって思ってた」
悠介は、少しだけ眉を下げた。
「無理だろ、それ」
「うん、今は分かる」
私も少し笑った。
涙が出そうだった。悲しいのか、恥ずかしいのか、うれしいのか、自分でも分からなかった。
「文化祭のとき」
悠介が言った。
「真帆と二人で回ろうと思ってた」
私は顔を上げた。
「うそ」
「なんで嘘つくんだよ」
「奈緒とライブ行ったじゃん」
「真帆が、どこでもいいって言ったから」
胸の奥に、文化祭の日の理科室が戻ってきた。
暗い天井。少し歪んだ星。一人で座っていた私。
「プラネタリウム、悠介と行きたかった」
「言えよ」
「言えなかったの」
「なんで?」
「好きだって分かるから」
悠介はしばらく黙ったあと、困ったように笑った。
「本当に分かんないな、真帆は」
「悠介だって何も言わなかったじゃん」
「俺は……」
言いかけて、悠介は口を閉じた。
次の信号が青になった。けれど、私たちはまだ動かなかった。
「俺も、真帆のこと好きだったと思う」
その言葉は、私が何度も想像した告白とは違っていた。
好きだった。しかも、「と思う」がついている。
曖昧で、頼りなくて、悠介らしかった。
それでも、胸の奥に温かいものが広がった。
「何それ」
「分かんないんだよ。こういうの」
「私も分かんない」
「じゃあ、一緒じゃん」
私たちは少し笑った。
好きだった。今も好き。
でも悠介は、二日後にはこの街を離れる。
今から付き合えば、何かが変わるのだろうか。
毎日メールをして、会えない時間を待って、いつかどちらかが疲れるのだろうか。
それとも、離れていてもうまくいくのだろうか。
いくつもの未来が浮かんだ。けれど、どれが正しいのかは分からなかった。
「どうする?」
悠介が聞いた。
私は、すぐには答えなかった。
付き合おうと言えばいいのかもしれない。遠距離でも大丈夫、と約束すればいいのかもしれない。
けれど、本当にそうしたいのかは、まだ分からなかった。
好きだと伝えたかった。それは、できた。
悠介の気持ちを知りたかった。少しだけ、知ることができた。
その先を、今すぐ決めなくてもいいような気がした。
「今日は、言いたかっただけ」
私は答えた。
悠介は少し意外そうな顔をした。
「付き合いたいとかじゃなくて?」
「分かんない」
「分かんないの?」
「好きだけど、離れるじゃん。何ができるかも分かんないし」
「うん」
「だから、今は言えたことでいい」
口にしてみると、それが一番、自分の気持ちに近かった。
恋を叶えるためだけに告白したのではなかった。
何も言わなかった自分のまま、この時間を終わらせたくなかった。
私は、私が悠介を好きだったことを、なかったことにしたくなかった。
悠介はしばらく私を見ていた。それから、小さく頷いた。
「言ってくれてよかった」
信号が、また赤に変わった。
私たちは二回も渡る機会を逃していた。
「次、行こう」
悠介が言った。
「うん」
三度目の青信号で、私たちはようやく横断歩道を渡った。
何かが解決したわけではなかった。恋人になったわけでもない。悠介が転校しなくなったわけでもない。
それでも、さっきまでとは足の感覚が違っていた。
地面を踏むたび、自分の身体がちゃんと前へ進んでいる。
* * *
駅の前で、悠介が自動販売機に立ち寄った。
「何飲む?」
並んだボタンを見る。
いつかと同じように、レモンティーを選ぼうとした。けれど、その日は甘いものが飲みたかった。
「ミルクティー」
「珍しい」
「今日は、これがいい」
悠介はボタンを押した。落ちてきた缶を私に渡す。
温かかった。
「静岡行っても、メールしていい?」
私が聞いた。
「いいに決まってるだろ」
「返信遅くても、嫌われたって決めないようにする」
「寝てるだけかもしれないし」
六月の夜を思い出して、二人で笑った。
改札の前で、悠介はいつものように片手を上げた。私も手を上げた。
別れ際、彼が私の名前を呼んだ。
「真帆」
「何?」
「俺も、もう少し考える」
何を、と聞こうとしてやめた。
それは、悠介が決めることだった。
「うん」
私はそう答えた。
電車の窓から、悠介の姿が見えなくなるまで見ていた。
胸は痛かった。寂しかった。これからどうなるのか分からなかった。
けれど、前とは違っていた。
分からない未来の中へ、自分で一歩を踏み出した感覚があった。
悠介に選ばれたからではない。正しい答えを選べたからでもない。
私は、伝えたいと思った。だから伝えた。
その選択だけは、誰にも取り上げられなかった。
* * *
部屋の中には、「進む」の香りが静かに漂っていた。
窓から入る風が、カーテンを揺らしている。
テーブルの上には、書きかけのメッセージが残っていた。
私はスマートフォンを手に取った。
今夜、伝えれば、相手がどう思うのかは分からない。
面倒だと思うかもしれない。うまく受け取ってもらえないかもしれない。話したことで、関係が変わるかもしれない。
伝えずにおくこともできる。少し時間を置くこともできる。何もなかったように笑うこともできる。
選択肢はいくつもあった。
けれど、何も言わずに平気なふりをすることは、今の私が選びたい道ではなかった。
私は、もう一度文章を打った。
《この前のこと、本当は少し寂しかった。責めたいわけじゃなくて、私はそう感じたって、ちゃんと伝えておきたい。今度、少し話せる?》
何度か読み返した。
言葉は完璧ではなかった。もっとやわらかく書くこともできる。もっと短く書くこともできる。
相手にとっての正解が、どんな文章なのかは分からなかった。
けれど、今の自分の気持ちからは、大きく離れていなかった。
私は送信ボタンの上に指を置いた。
悠介に好きだと言ったあの日も、きっと同じだった。
準備が整ったから進んだのではない。怖くなくなったから言えたのでもない。
自分がそうしたいと、ほんの少しだけ信じられたからだった。
私は、送信ボタンを押した。
画面に、自分の言葉が表示される。
返事はまだない。これから何が起きるのかも分からない。
それでも、不思議とすぐに画面を伏せたいとは思わなかった。
窓の外へ目を向ける。
夜の空には、星が一つだけ見えていた。
文化祭の理科室で見た、少し歪んだ星を思い出した。
あの頃の私は、誰かに選ばれることばかりを願っていた。
けれど、初恋が私に残したのは、選ばれる喜びだけではなかった。
好きだから不安になる自分を知った。
悲しさの奥にある、まっさらな願いを知った。
そして、いくつもの道の中から、自分はどこへ進みたいのかを考え、選び、足を出すことを知った。
初恋は終わった。
悠介が今、どこで何をしているのかも知らない。
それでも、あの恋の中にいた私は、今もここにいる。
雨の夜に返事を待っていた私。
暗い理科室で、一人で星を見上げた私。
赤信号の前で立ち止まり、震える声で好きだと言った私。
どの私も、今の私をつくる一部だった。
香りの中で、私はゆっくり息を吸った。
そして、窓辺へ歩いた。
誰かに背中を押されたわけではなかった。正しい未来が見えたわけでもない。
ただ、自分の感じたまま、これで進んでいい。
そう思えた。
窓の外では、春の風が新しい葉を揺らしていた。
私はその音を聞きながら、自分の足で、静かに一歩を踏み出した。