SECRET GARDEN: ANOTHER STORY

『初恋のつづきは、私の中に。』

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第3話『進む』

〜自分の選択を信じて歩き出す〜

メッセージを書いては消していた。

《今度、少し話せない?》

それでは、何を話したいのか分からない。

《この前のこと、ちゃんと話したい》

これでは、相手を責めているように見えるかもしれない。

《本当は、少し寂しかった》

そこまで打って、指が止まった。

寂しかった。

ただ、それだけのことを伝えるのが、どうしてこんなに難しいのだろう。

言葉にした瞬間、自分の弱いところを差し出すような気がする。

面倒だと思われるかもしれない。考えすぎだと言われるかもしれない。

そんなつもりはなかったと、軽く流されるかもしれない。

それなら、何も言わない方がいい。

時間がたてば、この気持ちも薄くなる。相手に合わせて笑っていれば、関係を変えずに済む。

何度も繰り返してきた考えだった。

私は入力した文章をすべて消し、スマートフォンをテーブルへ置いた。

画面が暗くなる。

窓の外では、春の風が街路樹を揺らしていた。

夜になりきる前の、青く薄い空。遠くで電車が通り過ぎる音が聞こえた。

私は、テーブルの端に置かれていた小瓶を手に取った。ラベルには、「 Sunlit Citrus」と書かれている。

部屋の中央へ、静かに香りを放った。

細かな霧が灯りを横切り、開けていた窓の方へゆっくり流れていく。

もう一度、空間へ広げる。

香りは、背中を押さなかった。

早く決めなさいとも、勇気を出しなさいとも言わなかった。

ただ、さっきまでより少しだけ、部屋が広く感じられた。

道は一つではない。

伝えることもできる。伝えないこともできる。今夜ではなく、明日にすることもできる。

少し距離を置くことも、もう一度会って話すこともできる。

どれが正しいかではなく、私はどれを選びたいのか。

香りの中で息をしたとき、遠くを走る電車の音が、別の春の夕方を連れてきた。

悠介が、この街を離れると知った日のことだった。

* * *

高校二年の終わりが近づいていた。

三月に入っても朝はまだ寒く、教室の窓には薄く白い曇りが残っていた。

卒業するのは三年生だけだった。

私たちは春休みを終えれば、そのまま同じ校舎で三年生になる。

少なくとも、私はそう思っていた。

朝のホームルームが始まる前、教室の後ろに何人かの男子が集まっていた。その中心にいたのは悠介だった。

「引っ越すって、どこに?」

誰かが聞いた。

悠介は、机の上に腰を掛けたまま答えた。

「静岡。親父の仕事」

「遠くない?」

「まあ、新幹線ならそんなでもないけど」

「転校すんの?」

「する。春休み中に引っ越すから、ここに来るのは今学期まで」

聞こえてきた言葉の意味が、すぐには分からなかった。

悠介が引っ越す。転校する。今学期まで。

頭の中には入ってきたはずなのに、どこにも引っかからず、床へ落ちていくようだった。

私は席に座ったまま、筆箱からシャープペンシルを出した。

ノートを開く。今日の日付を書く。何も聞いていないふりをした。

悠介は、どうして私に言わなかったのだろう。

そう思ったあとで、言う理由がないことに気づいた。

私たちは付き合っていない。

放課後に話すことが増えた。ときどきメールをする。駅まで一緒に帰ることもある。

けれど、それだけだった。

私は悠介にとって、転校を一番に知らせるような相手ではなかった。

その事実を考えると、胸の奥が冷たくなった。

「真帆、聞いてた?」

隣の席の子に声をかけられた。

「何を?」

「悠介、転校するんだって」

「聞こえた」

できるだけ普通に答えた。

「びっくりだよね」

「うん。でも、仕方ないよね。親の仕事なら」

自分でも驚くほど、きれいな言葉が出た。

仕方ない。

まだ高校生なのだから、家族と一緒に行くしかない。静岡なら、二度と会えないほど遠くもない。

メールだってできる。今までと何も変わらないかもしれない。

そう考えれば考えるほど、胸の中で別の声が大きくなった。

嫌だ。

行ってほしくない。

まだ何も言っていない。

私は悠介に、何一つ伝えていない。

文化祭の日、悠介と一緒に星を見たかったことも。奈緒と歩いていく背中を見て、悲しかったことも。

駅まで一緒に帰れる日は、前の日から何を話そうか考えていたことも。

あの雨の日より前から、たぶんずっと好きだったことも。

私はいつも、悠介が何かを察してくれるのを待っていた。

けれど悠介は、私が言わなかったことを知らない。知らないまま、この街からいなくなる。

一時間目が始まっても、先生の声はほとんど耳に入らなかった。

黒板に書かれた数式をノートへ写しながら、私はいくつもの未来を考えた。

今までどおり、何も言わずに見送る。最後にみんなで写真を撮り、笑って手を振る。

転校したあとも、ときどきメールをする。そのうち返信の間隔が空く。

新しい学校で、新しい友達ができる。好きな女の子ができる。

私はそれを、ずっとあとになって誰かから聞く。

そこまで考えたとき、シャープペンシルの芯が折れた。ノートの上に、小さな黒い点が残った。

もう一つの未来も考えた。

好きだと伝える。

悠介は困る。転校する直前にそんなことを言われても、どうしようもないと思うかもしれない。

断られるかもしれない。友達に話されるかもしれない。残された数日まで、気まずくなるかもしれない。

それなら、今のままの方がいい。

楽しかった記憶だけを残しておいた方がいい。

けれど、その未来を想像すると、胸の奥に何かが残った。

言わなかった言葉が、ずっとそこに刺さり続けるような気がした。

* * *

昼休み、私は一人で階段の踊り場にいた。

教室にいると、悠介の声が聞こえる。いつもと変わらず笑っている声を聞くのが、少しつらかった。

窓の外には、まだ葉のない桜の木が並んでいた。

花が咲く頃には、悠介はもうここにいない。

「真帆」

振り返ると、奈緒が立っていた。手には紙パックのジュースを持っていた。

「こんなところで何してんの?」

「別に」

奈緒は私の隣へ来ると、窓枠に背中を預けた。

しばらく何も言わなかった。

彼女のそういうところを、私は少し意外に思った。

奈緒は、いつも明るく、思ったことをすぐ口にする人だと思っていた。けれどその日は、私が話すまで待っていた。

「悠介、引っ越すんだね」

私が言うと、奈緒は小さく頷いた。

「うん。部活の方では、少し前に聞いた」

「そうなんだ」

また胸が痛んだ。

奈緒は先に知っていた。私は知らなかった。

その痛みを感じた直後、私はいつものように打ち消そうとした。

部活が同じなのだから当然だ。奈緒が悪いわけではない。私が特別ではなかっただけだ。

けれど、その言葉で覆ってしまう前に、別の気持ちが浮かんだ。

教えてほしかった。

悠介の口から、先に聞きたかった。

「真帆は、どうするの?」

奈緒が聞いた。

「どうするって?」

「悠介に」

「何もすることないよ」

「そっか」

その言葉に、私は奈緒を見た。

悠介と同じだった。

私が本音を隠すと、みんな「そっか」と言う。

当たり前だった。その先にあるものを、私は誰にも見せていない。

「言った方がいいと思う?」

思わず聞いた。

奈緒は、すぐには答えなかった。紙パックの角を指で押しながら、少し考えていた。

「私は、言った方がいいとか、言わない方がいいとか、分かんない」

「何それ」

「だって、言ってどうなるかは悠介次第じゃん」

胸が重くなった。

やっぱり、やめた方がいいのかもしれない。

そう思ったとき、奈緒が続けた。

「でも、真帆がどうしたいかは、真帆しか分かんないでしょ」

私は何も言えなかった。

言えば、恋が叶うかもしれない。言えば、後悔しないかもしれない。

そんなことばかり考えていた。

でも本当は、叶うかどうかも、後悔するかどうかも、まだ分からない。

私はどうしたいのか。

そのことだけを、自分に聞いたことがなかった。

「奈緒は、悠介のこと好きじゃないの?」

ずっと聞けなかったことを、私は聞いた。

奈緒は目を丸くしたあと、声を出して笑った。

「ないない。あいつ、小学校のとき泥団子食べてたし」

「食べないでしょ、普通」

「悠介は食べた。賭けで」

笑いながら話す奈緒を見て、私も少し笑った。

胸の奥に長い間あったものが、全部消えたわけではなかった。

奈緒と悠介が特別に見えていたことも、本当だった。奈緒に嫉妬していたことも、本当だった。

でも、私が想像していたことのすべてが、事実だったわけではない。

「好きなの?」

奈緒が今度は私に聞いた。

私は廊下の床を見た。

好きだと答えるだけで、心臓が速くなる。

それでも、小さく頷いた。

「うん」

初めて、誰かの前で認めた。

声にすると、身体の中で何かが動いた。

怖かった。けれど同時に、少しだけ足元がはっきりした。

「そっか」

奈緒は、もう一度そう言った。

今度の「そっか」は、前とは違って聞こえた。

私の言葉を、そのまま受け取ってくれたような気がした。

* * *

悠介が学校へ来る最後の日まで、あと四日だった。

私は毎日、今日こそ話そうと思った。

けれど、教室に悠介がいると、いつもどおりに話してしまった。

数学の宿題。テレビの話。新しい学校の制服が変だという話。引っ越しの準備が面倒だという話。

「静岡行ったら、お茶ばっか飲むのかな」

私が言うと、悠介は笑った。

「真帆、静岡を何だと思ってんの」

こんなふうに話せる時間を、気まずくしたくなかった。

好きだと言えば、今までと同じではいられなくなる。

でも、何も言わなければ、今までと同じ時間そのものが終わる。

最後の登校日の前夜。

私はメールの画面を開いた。

《明日、学校終わったあと少し時間ある?》

打ってから、十分近く送れなかった。

理由を書いた方がいいだろうか。話があると書けば、重いかもしれない。

駅まで一緒に帰ろう、くらいにした方がいいかもしれない。

何度も文章を書き直した。

最後に残ったのは、最初に打った一文だった。

《明日、学校終わったあと少し時間ある?》

私は目を閉じ、送信した。

返事は、三分後に届いた。

《あるよ。何?》

何、と聞かれても答えられなかった。

《明日言う》

送ると、すぐに返事が来た。

《怖いんだけど》

その文の最後には、笑っている顔の絵文字がついていた。

私は少しだけ笑った。

《別に怖くない》

本当は、私の方がずっと怖かった。

* * *

次の日の放課後、空はよく晴れていた。

冬の名残を残した冷たい風が、制服のスカートを揺らしていた。

私たちは、駅までの道を歩いた。

六月に、初めて一つの傘へ入った道だった。

あの日には濡れていたアスファルトが、春の光を白く反射していた。

悠介は、いつもと同じように話していた。

引っ越し先の部屋が狭いこと。新しい学校には、今の学校より大きな体育館があること。

荷造りをしていたら、小学生の頃の作文が出てきたこと。

私は返事をしながら、いつ言えばいいのかを考えていた。

今。次の角を曲がったら。信号が赤になったら。駅へ着く前に。

そう思い続けているうちに、駅が見えてきた。

このままでは、また何も言えない。

一つ目の信号が青になった。

悠介が歩き出す。私は動けなかった。

数歩先へ進んだ悠介が、振り返った。

「真帆?」

信号の音が鳴っていた。早く渡らなければ、赤になる。

通り過ぎる車の音。駅へ向かう人たちの足音。冷たい風。

私は横断歩道の手前に立ったまま、悠介を見た。

「話がある」

「うん。だから何?」

悠介が戻ってきた。

信号が赤に変わる。人の流れが途切れ、私たちだけが歩道の端に残った。

心臓の音が、うるさいほど聞こえた。

「私、悠介のこと好きだった」

言葉が出た瞬間、自分でも違和感があった。

好きだった。

過去形にすれば、傷つかずに済むと思った。

悠介は何も言わなかった。その沈黙が怖くなった。

私は手のひらを強く握った。

ここで、いつものように笑えばよかった。冗談だと言うこともできた。

昔の話だから、と付け加えることもできた。

でも、それでは何も変わらない。

私は息を吸った。

「違う」

「え?」

「好きだった、じゃなくて」

悠介の顔を見た。

逃げたくなった。

それでも、今ここで伝えたいと思ったのは私だった。

誰かに言われたからではない。恋を叶える方法として正しいからでもない。

言わないまま終わらせたくなかった。

「今も、好き」

声は、思っていたより小さかった。

でも、ちゃんと悠介まで届いた。

悠介は驚いた顔をしていた。それから一度、目をそらした。

困らせた。

そう思った。胸が縮む。

断られる言葉を聞く前に、逃げたくなった。

「ごめん。急に」

「いや」

「返事とか、別に今じゃなくていいから」

「真帆」

名前を呼ばれて、私は黙った。

悠介は、少しだけ笑った。いつものふざけた笑い方ではなかった。

「俺、真帆が何考えてるか、全然分かんなかった」

「言ってないから」

「うん」

「でも、分かってほしいって思ってた」

悠介は、少しだけ眉を下げた。

「無理だろ、それ」

「うん、今は分かる」

私も少し笑った。

涙が出そうだった。悲しいのか、恥ずかしいのか、うれしいのか、自分でも分からなかった。

「文化祭のとき」

悠介が言った。

「真帆と二人で回ろうと思ってた」

私は顔を上げた。

「うそ」

「なんで嘘つくんだよ」

「奈緒とライブ行ったじゃん」

「真帆が、どこでもいいって言ったから」

胸の奥に、文化祭の日の理科室が戻ってきた。

暗い天井。少し歪んだ星。一人で座っていた私。

「プラネタリウム、悠介と行きたかった」

「言えよ」

「言えなかったの」

「なんで?」

「好きだって分かるから」

悠介はしばらく黙ったあと、困ったように笑った。

「本当に分かんないな、真帆は」

「悠介だって何も言わなかったじゃん」

「俺は……」

言いかけて、悠介は口を閉じた。

次の信号が青になった。けれど、私たちはまだ動かなかった。

「俺も、真帆のこと好きだったと思う」

その言葉は、私が何度も想像した告白とは違っていた。

好きだった。しかも、「と思う」がついている。

曖昧で、頼りなくて、悠介らしかった。

それでも、胸の奥に温かいものが広がった。

「何それ」

「分かんないんだよ。こういうの」

「私も分かんない」

「じゃあ、一緒じゃん」

私たちは少し笑った。

好きだった。今も好き。

でも悠介は、二日後にはこの街を離れる。

今から付き合えば、何かが変わるのだろうか。

毎日メールをして、会えない時間を待って、いつかどちらかが疲れるのだろうか。

それとも、離れていてもうまくいくのだろうか。

いくつもの未来が浮かんだ。けれど、どれが正しいのかは分からなかった。

「どうする?」

悠介が聞いた。

私は、すぐには答えなかった。

付き合おうと言えばいいのかもしれない。遠距離でも大丈夫、と約束すればいいのかもしれない。

けれど、本当にそうしたいのかは、まだ分からなかった。

好きだと伝えたかった。それは、できた。

悠介の気持ちを知りたかった。少しだけ、知ることができた。

その先を、今すぐ決めなくてもいいような気がした。

「今日は、言いたかっただけ」

私は答えた。

悠介は少し意外そうな顔をした。

「付き合いたいとかじゃなくて?」

「分かんない」

「分かんないの?」

「好きだけど、離れるじゃん。何ができるかも分かんないし」

「うん」

「だから、今は言えたことでいい」

口にしてみると、それが一番、自分の気持ちに近かった。

恋を叶えるためだけに告白したのではなかった。

何も言わなかった自分のまま、この時間を終わらせたくなかった。

私は、私が悠介を好きだったことを、なかったことにしたくなかった。

悠介はしばらく私を見ていた。それから、小さく頷いた。

「言ってくれてよかった」

信号が、また赤に変わった。

私たちは二回も渡る機会を逃していた。

「次、行こう」

悠介が言った。

「うん」

三度目の青信号で、私たちはようやく横断歩道を渡った。

何かが解決したわけではなかった。恋人になったわけでもない。悠介が転校しなくなったわけでもない。

それでも、さっきまでとは足の感覚が違っていた。

地面を踏むたび、自分の身体がちゃんと前へ進んでいる。

* * *

駅の前で、悠介が自動販売機に立ち寄った。

「何飲む?」

並んだボタンを見る。

いつかと同じように、レモンティーを選ぼうとした。けれど、その日は甘いものが飲みたかった。

「ミルクティー」

「珍しい」

「今日は、これがいい」

悠介はボタンを押した。落ちてきた缶を私に渡す。

温かかった。

「静岡行っても、メールしていい?」

私が聞いた。

「いいに決まってるだろ」

「返信遅くても、嫌われたって決めないようにする」

「寝てるだけかもしれないし」

六月の夜を思い出して、二人で笑った。

改札の前で、悠介はいつものように片手を上げた。私も手を上げた。

別れ際、彼が私の名前を呼んだ。

「真帆」

「何?」

「俺も、もう少し考える」

何を、と聞こうとしてやめた。

それは、悠介が決めることだった。

「うん」

私はそう答えた。

電車の窓から、悠介の姿が見えなくなるまで見ていた。

胸は痛かった。寂しかった。これからどうなるのか分からなかった。

けれど、前とは違っていた。

分からない未来の中へ、自分で一歩を踏み出した感覚があった。

悠介に選ばれたからではない。正しい答えを選べたからでもない。

私は、伝えたいと思った。だから伝えた。

その選択だけは、誰にも取り上げられなかった。

* * *

部屋の中には、「進む」の香りが静かに漂っていた。

窓から入る風が、カーテンを揺らしている。

テーブルの上には、書きかけのメッセージが残っていた。

私はスマートフォンを手に取った。

今夜、伝えれば、相手がどう思うのかは分からない。

面倒だと思うかもしれない。うまく受け取ってもらえないかもしれない。話したことで、関係が変わるかもしれない。

伝えずにおくこともできる。少し時間を置くこともできる。何もなかったように笑うこともできる。

選択肢はいくつもあった。

けれど、何も言わずに平気なふりをすることは、今の私が選びたい道ではなかった。

私は、もう一度文章を打った。

《この前のこと、本当は少し寂しかった。責めたいわけじゃなくて、私はそう感じたって、ちゃんと伝えておきたい。今度、少し話せる?》

何度か読み返した。

言葉は完璧ではなかった。もっとやわらかく書くこともできる。もっと短く書くこともできる。

相手にとっての正解が、どんな文章なのかは分からなかった。

けれど、今の自分の気持ちからは、大きく離れていなかった。

私は送信ボタンの上に指を置いた。

悠介に好きだと言ったあの日も、きっと同じだった。

準備が整ったから進んだのではない。怖くなくなったから言えたのでもない。

自分がそうしたいと、ほんの少しだけ信じられたからだった。

私は、送信ボタンを押した。

画面に、自分の言葉が表示される。

返事はまだない。これから何が起きるのかも分からない。

それでも、不思議とすぐに画面を伏せたいとは思わなかった。

窓の外へ目を向ける。

夜の空には、星が一つだけ見えていた。

文化祭の理科室で見た、少し歪んだ星を思い出した。

あの頃の私は、誰かに選ばれることばかりを願っていた。

けれど、初恋が私に残したのは、選ばれる喜びだけではなかった。

好きだから不安になる自分を知った。

悲しさの奥にある、まっさらな願いを知った。

そして、いくつもの道の中から、自分はどこへ進みたいのかを考え、選び、足を出すことを知った。

初恋は終わった。

悠介が今、どこで何をしているのかも知らない。

それでも、あの恋の中にいた私は、今もここにいる。

雨の夜に返事を待っていた私。

暗い理科室で、一人で星を見上げた私。

赤信号の前で立ち止まり、震える声で好きだと言った私。

どの私も、今の私をつくる一部だった。

香りの中で、私はゆっくり息を吸った。

そして、窓辺へ歩いた。

誰かに背中を押されたわけではなかった。正しい未来が見えたわけでもない。

ただ、自分の感じたまま、これで進んでいい。

そう思えた。

窓の外では、春の風が新しい葉を揺らしていた。

私はその音を聞きながら、自分の足で、静かに一歩を踏み出した。